私感仏教論Vol.6ー16 呉智英著『つぎはぎ仏教入門』をさらにつぎはぎ 「覚り」と「慈悲」の葛藤
愚かな民衆なんて無視しよう 苦労してやっと得た真理をなぜ、人に説かないといけないのか?
有名な話ですけれど、釈迦は愚かな民集などにやっと取得した真理を受け取ることはできないであろうと、考え、この真理を墓までもっといこうと思ったことになっています。しかし、そこに梵天が現れ、釈迦を勧請する。
仏教はもともと理知的な宗教であり、ほとんど神話というものは存在しない。ヒンズー教の神話や神様をお借りしてる部分もあるけれど、特に「最初に光はない」し、洪水もないし、岩度にお隠れもしていない。
”LOVE”の日本語訳「愛」は誤訳?
ここで、「慈悲」という概念が登場する。
釈迦は哀れな愚民ども、衆生どもを助けようという気は「覚り」を開いた時点では「慈悲」というものは存在しない。哀れな大衆のためにこそ、真理は説かれるべきである。ここではじめて「慈悲」という概念が出てくる。相手を思う気持ちと訳すのが正しいのであろうか?
私は前から、”LOVE”を「愛」と訳すのは誤訳ではないかと思っている。日本語にしても、漢字にしても「愛」という単語にはあまり良い意味がありません。肉欲的な意味で使われることが多い。それに対して”LOVE”は「キリスト教で見返りを求めず、限りなく深く慈しむこと」とある。では”LOVE”は「慈悲」と訳すべきではないであろうか。
特にJohn Lennon の”Love"を聴いていると、なおさらそう思うのである。