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私感仏教論Vol.6ー16 呉智英著『つぎはぎ仏教入門』をさらにつぎはぎ 「覚り」と「慈悲」の葛藤

愚かな民衆なんて無視しよう 苦労してやっと得た真理をなぜ、人に説かないといけないのか?
 
仏教では現世に現れた仏陀は釈迦一人ということになっています。「仏陀」は目覚めた人と言う意味で、真理を得たのは今のところ、釈迦一人ということになっている。
 
有名な話ですけれど、釈迦は愚かな民集などにやっと取得した真理を受け取ることはできないであろうと、考え、この真理を墓までもっといこうと思ったことになっています。しかし、そこに梵天が現れ、釈迦を勧請する。
手塚治虫の『ブッダ』における最初のクライマックスです。
 

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仏教はもともと理知的な宗教であり、ほとんど神話というものは存在しない。ヒンズー教の神話や神様をお借りしてる部分もあるけれど、特に「最初に光はない」し、洪水もないし、岩度にお隠れもしていない。
 
哲学者K・ヤスパース*1は、今から2500年前を「軸の時代」と名付けている。孔子ソクラテス、釈迦の三人の思想家がほぼ同時期に生まれているからである。
 
”LOVE”の日本語訳「愛」は誤訳?
 
ここで、「慈悲」という概念が登場する。
釈迦は哀れな愚民ども、衆生どもを助けようという気は「覚り」を開いた時点では「慈悲」というものは存在しない。哀れな大衆のためにこそ、真理は説かれるべきである。ここではじめて「慈悲」という概念が出てくる。相手を思う気持ちと訳すのが正しいのであろうか?
呉智英氏はこの「梵天勧請」を人類史上の永遠のテーマである「知識人と大衆」論の原型だと述べる。しかも、「衆生の要請」を擬人化した象徴表現だと述べている。
 
私は前から、”LOVE”を「愛」と訳すのは誤訳ではないかと思っている。日本語にしても、漢字にしても「愛」という単語にはあまり良い意味がありません。肉欲的な意味で使われることが多い。それに対して”LOVE”は「キリスト教で見返りを求めず、限りなく深く慈しむこと」とある。では”LOVE”は「慈悲」と訳すべきではないであろうか。
 
特にJohn Lennon の”Love"を聴いていると、なおさらそう思うのである。
 

 
 
 
 

*1:[1883〜1969]ドイツの哲学者。もと精神病理学者。科学の限界を感じ哲学の研究にはいり,体系的な実存哲学を樹立。その体系は哲学的世界定位,実存開明,暗号解読などの超越的一者への道より成る。著「精神病理学総論」「世界観の心理学」「哲学」「ニーチェ」など。