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私感仏教論Vol.6ー9 呉智英著『つぎはぎ仏教入門』さらにつぎはぎ 犀の角のようにただ独り歩め

大乗仏教とは一体なんなのか?
 
そこに釈迦の教えが入っているからといえ、「あくまでも拡大解釈に過ぎない」とでもいうのであろうか?(「本当にあった呪いのビデオ」調で読んでいただけるとありがたいです。)
「小乗仏教」を「原始仏教」、「初期仏教」と言われていますけれど、「釈迦の仏教」という言い方があります。何?「釈迦の仏教」だと!では釈迦のものではない仏教があるのか!
 
佐々木閑氏の『集中講義 大乗仏教』の一文を引用します。
長い歴史のどこかで「昔から伝わっているお経には書かれていないけれども、論理的に正しければ、それは釈迦の教えと考えてよいのではないか」と主張する一団が現れます。
 
最近の研究では、やはり釈迦の説いた教えはいわゆる「小乗仏教」に近いものであるとわかっている。しかもはじめて釈迦が覚りを得たとき、愚かな衆生にこの法を語っても分かってもらえるはずがないと阿含経の「梵天勧請」で語られている。
私はこのエピソードは好きです。「こんな愚民どもに言っても無駄だ」と思った釈迦の人間臭さを感じます。それを梵天が現れて、釈迦に説得する。
この仏教逸話は手塚治虫先生の『ブッダ』では大変わかりやすく描写している。釈迦はその
「慈悲」の心を打たれ法を得ことを決心する。
 
それが最古の仏典「スッタニパータ」に登場する有名な「犀の角の譬喩」である。
 
犀の角のようにただ独り歩め
 
孤高の人を示す、とても良い言葉ですけれど、自分の使命にそって直進しなさい。かっこいいと思うけれど?あれ?最高神の梵天に言われなければ、誰にも真理を解かなかった?
 
釈迦の最後の言葉は「すべては移ろいゆく。怠らず精進しないさい」だったとされています。しかし手塚先生の『ブッダ』の最終回のシーン覚えていますか?入滅した仏陀の前に梵天がお迎えに現れますが、ブッダは「私の後、死後私の教えはどうなりますか」。自分の教えが歪められることを明らかに嫌がっています。
 
これって手塚先生のことだと、いしかわじゅんは語っていました(笑)。
 
大乗仏教まで行かなかった。また次回!