読書の話📚Vol.20 横溝正史 田舎もの
横溝正史の文学的評価はいかに?
横溝正史は「今でも人気を誇る作家」のように書かれていますけれど、どうですかね?
しかし、肌感覚というか、本屋さんを歩いてみても以前のようなブームでは明らかにないみたいですね。
以前のように歴史に葬られることはないとは二度とないとは思いますけれど、あのブームを知っているものとしては少し寂しいです。
あの頃は角川文庫で100冊以上出版されていました。さらに仕掛け人の角川春樹は毎年、市川崑と石坂浩二のコンビで映画化されていたし、古谷一行でテレビドラマシリーズも頻繁に放映されていました。(これもミステリーチャンネルやファミリー劇場で再放送よくやっています)。
最近でも長谷川博己の『獄門島』や稲垣吾郎の『悪魔が来たりて笛を吹く』をドラマ化していたのは記憶に新しいです。
しかしあのブームを体感している身としてはちょっと寂しいです。
本屋さんを歩いても、平積みにされていないし、いわゆる代表作も満足に並んでいません。しかも文字造形だけになった表紙はちょっと寂しいです。
今でも横溝ファンを自認する人にちょっと聞いてみたい。
日本にはお屋敷は田舎に行かないとないし、戦後さらになくなってしまいました
いつ自分が殺されるか解らない恐怖。殺人鬼は隣にいるかもしれないという恐怖。犯人は人混みに隠れてしまうかもしれない。だから、推理小説は都会が似合います。
もうひとつの恐怖はお屋敷ものに存在します。このケースは保険金であるとか、遺産争いが多い。「次は自分が殺されるかもしれない」という恐怖。「こいつが死ねば自分はもっと遺産がもらえる」それは自分も同じこと。お互い疑心暗鬼になっていく。隣にいる人間が自分を殺すかもしれないという心理的な恐怖。そして骨肉の争い。
ところが日本にはお屋敷がない。
西欧の荘園領主を舐めてはいけない。日本の六義園なんて大したことないですよ。迎賓館でさえ庭園が狭いですよ。山ひとつ屋敷にしてしまうのが西洋です。どこまでが自分の農園なのか解らない。境目が解らない。ものすごく大きい。山狩りを自分の庭でやってしまうスケールの大きさ。それが日本のお屋敷もどきにはない。
そこで横溝先生は気が付いた。「そうだ田舎に行こう」
日本の庄屋さんの屋敷は小さくとも、村全体がお屋敷という舞台にしてしまえ。すると村八分にするという日本独自の負の文化が勝手に動き出した。面白い。他所者を排除しようとする排他的な空気が発生する。日本では無敵の「空気」さんです。(山本七平の『空気の研究』くらい読んでね)
排他的な空気。村八分という差別。そしてさらに村に伝わる伝承が加わる。
加えて横溝先生は「みなし殺人」という、おどろおどろしたテクニックまで身につけました。
ここまで、身に付いければあなたも横溝正史になれる!(笑)
『獄門島』なんてアガサ・クリスティの『そして誰もいなくなった』に二番煎じなんて言うなよな。
最初にパクった人間が偉いのです!二番煎じでも自分の世界を作り上げた人間が勝ちです。
そいうい意味では横溝先生は偉かった!
「田舎もの」と言うジャンルは決して小馬鹿にした表現ではないのです。
ひとつの新しいジャンルをつくるなんて、横溝先生は只者ではない!日本文学史にその名前を残すことが許された偉大な作家です。
さて、ここからは横溝先生をディスります。自分が最後まで横溝正史に関われなかった理由が以下の内容なのかもしれません。
その中で、横溝正史の作品は現代的にアレンジできないというのは二人の共通の意見です。
最後に私のブログの横溝正史先生は「田舎もの」だという発言に対して不快な思いをされた方がいたとしたら、ここでお詫び申し上げます。