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私感仏教論Vol.6-7  呉智英著『つぎはぎ仏教入門』をさらにつぎはぎ 仏教とキリスト教の違い 「信じるものは救われる?」

仏教とキリスト教の違い、呉氏の明確な回答がこちら。
 
仏教ー覚りの宗教「(絶対的存在へ)こちらから」
キリスト教ー救いの宗教「(絶対的存在が)向こうから」
 
そして、相容れない両者には融合がありえない。
素晴らしです。流石です!
 
では、もうひと方の意見をお聞きしたいと思います。
宗教学者の中村圭志氏の意見をここに表記します。
 
キリストは人と向き合い、仏陀は人の中に見出される。
表現は違うけれど、ほぼ同じことを定義つけしています。
 
そこで、ここから少し思うところを書きます・
 
「信じるものは救われる」、とか「あなたは神を信じますか?」というセリフってキリスト教というイメージありませんか?
私にはそういうイメージがあります。
 
これって「キリスト教は救いの宗教で向こうから神がやってくる」という理論にピッタリだと思いませんか?実に受動的だと思います。
 
さらに「信心」という言葉は欧米の一神教には使わないと思います。
 
そこで、『信心』という言葉を辞書で引くと
 
信心ー信じて祈ること。信仰心!期待した答えが書いていない!
 
そこで期待する回答を見つけるまで、ググります。当然です。
 
仏教では、信とは心を清浄にする精神の作用をいう。仏道を修める第一歩にこの信を置き、心を清浄にして教えを疑わず、その教えに向かうことである。一般に信というと、なにかある対象を信ずることと理解されるが、仏教では信は究極の真理である法そのものが自己のうえに現れ出たものであって、これが信心の本質である。浄土教ではとくに信心が強調され、ひたすら阿弥陀仏(あみだぶつ)の救済を信ずる心がたいせつであると説く。親鸞(しんらん)はこれを他力の信心といい、如来(にょらい)(阿弥陀仏)から私たち凡夫(ぼんぶ)に与えられた真実心にほかならないことを説き明かした。
日本大百科全書[瓜生津隆真]
 

 

やはり、もともと仏語だ!
大体、「宗教」という言葉も仏語です。
まず、仏道を修める第一歩が「信心」なのです。
 
釈尊は苦行を否定しました。
しかし、修行そのものは否定されていません。
 
火の上を歩くことは修行ではないのです。
しかし、「覚り」を自分から求めて、覚りを開かなければならない。そのためにはまず、信じる心を作らないといけない。せっかく阿弥陀様が道を用意していただいているのに、自分からその御心を信じ、理解しようとしなければいけません。
 
ここで、私は一言付け加えたいと思います。
 
仏教は能動的な宗教である。
キリスト教は受動的な宗教である。
 
意見が暴走しているかもしれません。ご意見を期待してます。