私感仏教論Vol.6ー15 呉智英著『つぎはぎ仏教入門』をさらにつぎはぎ 苦行の否定
苦行の否定
釈迦は苦行を否定します。苦行に自体が一種の執着である言います。
煩悩の原因です。
怪しげな新興宗教では、苦行を肯定している変な宗教があります。水に長時間つかったり、燃えた草の上を歩いたり。例えそれで覚りを開くことが出来ても、私は嫌だ!
釈迦は決してネガティブな、落伍者のように苦行を否定したわけではない。
出家したシッタールダはデーパと出会う。デーパはシッタールダを苦行林に誘う。コミックを読んでいると、苦行を目的としている。シッタールダはその苦行に対して疑問を感じ、苦行林を後にします。
雑阿含の「悪魔相応」で悪魔は「苦行を離れざればこそ 若き人々は清めらるるなり」と釈迦に語りかける。
それに対して「いかなる苦行も 利をもたらすことなしと知った」と答える。
呉智英は悪魔とは苦行者からの皮肉をこめた象徴的表現ではないかと言っている。
余談だけれど、仏教逸話や経典に出てくる悪魔は何かの象徴だったり、例えだったりすることが多いと思っている。人間を堕落させるものだったり、悪の道に誘うものだったりする。人間の心の中に六道全てがあるという考えが根底にあるのでしょう。キリスト教のようなに、コウモリの翼は持っていません(笑)
今回のテーマのために、いくつかの動画も見てみました。
なんと!苦行はある一線を超えると快楽になってしまうらしい。脳科学的には苦行はSMのプレイと同じで、脳からホルモンが出て快感になるということです(´⊙ω⊙`)
感覚をそのものを絶ってしまう苦行は確かに意味がないですね。
また、仏教には中道という考え方があります。政治用語と同じ意味です。両極端から両極端を避けることです。
仏教が論理的であり、宗教か学問かという論争あるのかそういうことかも。