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私感仏教論Vol.6ー13 呉智英著『つぎはぎ仏教入門』をさらにつぎはぎ 『ミリンダ王の問い』

6−12での輪廻転生の説明で非常に苦しかったので、改めて取り上げます。
 
釈迦の説かなかった輪廻主体とその転移について説かれたのが、釈迦入滅後である。
入滅後220年を経て、成立した『ミリンダ王の問い』で、詳しく述べられている。
 
紀元前2世紀頃、西北部にギリシヤ系勢力が侵入し、いくつかの王朝が成立した。その王の一人がミリンダ王である。
『ミリンダ王の問い』はそのミリンダ王とインドの仏教僧ナーガセーナとの対話が記録されたものである。対話形式で述べられるので、論点が明確である。さらに問答形式というものは自己点検であり、仏教思想を鍛えているのであろう。
 
さらに、仏教は釈迦の入滅後、様々な考えを「釈迦の論理」に外れなければ取り入れる柔軟性は他の宗教にないものであろう。
 
ミリンダ王はインドの学僧、長老を論破し、インド思想に少しがっかりしたところ、ナーガセーナに会うことを勧められ、ここから経典がはじまる。
 
「我々は集合体であって、実体はない」
 
インドの宗教ベースには「アートマン」というものがあり、「我」と訳される。この「我」が輪廻する。アートマンが神と一体できれば、輪廻から脱出できる。しかし仏教ではアートマンを否定する。固定的な実体のある我は存在しないという「無我論」にたっている。我々は縁起の法則によって、刻々と変化し続ける無常の存在でる。
 
すなわち縁起の法則による原因と結果の連鎖によって、刻々と変化しながら繋がっている。その根本にあるのが”無知”すなわち「無明」なのです。
 
やはり、仏教の輪廻とは魂のいれものの違いなのか?
人として、鍛えないと救いはない、のかもしれない。